和55年11月11日 朝の御理解
御神訓 一 真の道の心得
「幼少の時を忘れて親に不孝のこと。」
孝行したい時には親が居ないというような、親が亡くなった後に後悔が出る様な事ではならん。特に信心をさせて頂くものは、昨日の御理解じゃないですけれども、年寄りを大切にする心がけと仰いますが、私共が親に不孝をしてはならん、心配をかけてはならん、親に喜んでもらい、安心してもらえる自分にならなければならない。私はまいろんな難しいお願いをさせて頂く、お願いに見える方に申します事ですけれども、私が今日のようなこのような状態では、親が第一心配を致します。
「私がこんなに難儀をしておりましては、親が心配を致しますね。どうぞ親が生きとるうちに喜んでもらい、又は安心してもらえる為のおかげを頂かせて下され」という願いなら神様に筋が通る。神様が一番喜んで下さる事だからというふうに申します。もう別に親子の事ですから、親に不孝をしたいという者はそんなに居るもんじゃありません。もうこの親ばいっちょ苛めてやろうと、いうような子供もあるはずがございません。やはり親に喜んでももらいたい安心もしてもらいたいのですけれども。
どうでも親に喜んでもらわにゃ、安心してもらわにゃという、その念が足りないと私は思うです。本当に親孝行の人は、もうそれこそ親が子供の不幸、又は不幸な子供を持ちますと、それこそ親は生身に鉋をかけられる思いと申しますように、子供の方が親に孝行したいという一念を燃やさして頂いて、何とか親に安心させたい喜んでもらいたいと、思うておるだけじゃなくて、それを一つのどうでもこうでも、あのう親に孝行したいの一念を燃やすということが、信心の大体根本だと。
合楽理念の根本は親孝行にありといわれるのもそういう親孝行なんですね。親に心配かけちゃならん、親のいうことを聞かんならん。親を大切にするという程度が親孝行でなくて、どうでも親に安心してもらわなければ、この世におかげを頂いておる間にね、亡くなってからあぁもしてやればよかった、こうもしてやればよかったと、いったような後悔が出る様な親孝行では孝行じゃない。私は信心でいうそのものはみんなそうだと思う。こりゃ親孝行だけに限らず、いろいろ御教えがございます。
そのうあのう情念というかねその一念を燃やす事だと思うです。教えを行ずると申します事でも、おかげを受けなければならんから、行ずるではなくて。その例えば御教えが身に付いてくるというか、成程それが本当だといわば本当の本当が分からして頂いたら、その本当にならせて頂く事にね、いうならば命を賭けるという事だと思うです。 親の事を思うたら、又は神様の事を思うたら、それこそ寝ても覚めてもその事に、思いがかけられる。本当に神様の願いが少し分かってくる神様の思いが分かってくる。
そうしたらその神様の思いに応えたいね。親孝行したい親孝行したい。自分は立派な着物を着せて立派な家に住まわせて、百味のおんじきだろうかと思われるような美味しいものを食べさせたり、飲ませたりそれで親孝行と、間違えておるような場合があるのですね。先ず親が喜んでもらう安心してもらう、親が助かってもらうという、そこに信心が焦点がおかれますと有り難い。本当に親神様の思いが少しずつ深く広く分かって参りますと、本当にその親神様の御心に添い奉りたい。
親孝行がしたい為には、本当の親の心というのが分からなければ親孝行出けません。ただ形の上で今いう良い着物を着せたり、良い住まいに住まってもらったりいうだけではね。親の心が分かる時に始めてその心に添う時親孝行である。福岡の吉木辰次郎先生から何回も聞いたお話の中ですけれども、あちらの御信者の中に、大きな呉服の商売をして大変おかげを受けた方がある。非常に親孝行な人ですから、まぁそれこそ離れにまぁ隠居所のようなものを建てて上げて、それこそ上膳据え膳というでしょうか。
もう親を大切にされた。けれども一向その年寄りが喜ばない。或る時京都に仕入れに行かれた時に、改式はしてあるけれども、何とはなしにやっぱり仏様が昔のあのう仏壇を買うてやって、まぁ仏様も拝みたい気持ちがあるのじゃなかろうかというて、まぁ立派な御仏壇を注文して帰って来られたら、お婆ちゃんが腹かかれた。家は改式しとるとにどうして仏壇が要るかというちから腹かかれた。夫婦で話し合って家のお婆さんないっちょん喜ばんがどういう在り方になったら親が喜ぶじゃろかね。というていつも話し暮らす。
結局お婆さんの心が分からんから、いうならば痒い所に手が届くような、親孝行しとるようであるけれども、本当の痒い所はそこじゃなかったというのです。或る時にお店が賑わって手が足りないようにあった。それでお母さんいわゆる嫁さんが、あのう子供を裏の隠居所へ連れていって「お婆ちゃんすみません。お店が忙しいからちょっと見よって下さい。」と云って子供を連れていったら、大変喜ばれたという話なんです。
お婆ちゃんな少し位店でも手伝いたい、孫の守り位させてもらいたい。仏壇でもなからなければ隠居所でもない離れでもなかったね。初めて親の心がそん時分かったという話を聞いた事がございます。だから親の心が分からなければ、本当の親孝行は出けません。御信心させて頂くというても、熱心に参りよりま、お供えがどんどん出来ます、御用が出来ますだけでは、神様の本当の心が分かった。いわゆる神様への親孝行ということにはならない。御神願が分からなければならない。
神様が私共にかけて下さる、願いというものはどこにあるか。それも分かっただけではない。その分かった事に対していうならば命を懸けるのである。一生懸命お徳を受けられ、大きなおかげを頂かれた方達は、皆んなそうだと思います。神様の思いが分かって、その神様の思いに添い奉られた。しかも命がけでその事に取り組まれたと。泉尾の先生が私があれだけの御比礼を頂いておられる先生ですが、「私が亡くなる時に安楽死でも遂げたら私のいうて来た事は嘘だ。
私はもう最後の最後までもうそれこそ、まぁそれこそ七転八倒の苦しみをもってお国替えをしたい。そして皆んなのめぐりを、少しでもあちらへ持って行きたい。」といわれるそうです。そんな事があるもんかというふうに、思うた時代もありましたけれども、本当に親の思いが分かったら、最後の最後まで難儀な氏子の、取次ぎ助けられる事の為に、命懸けしかも七転八倒の苦しみがあっても、それをいとわん。そういうような人、私共では考えもつかない、又出来もしませんけれども。
そういう一生懸命のものが、あの泉尾の御比礼であろうかとも思われます。私は昨夜遅う終わってから、繁雄さんの奉仕を受けて、そして又手口ゆすいで、或る事が心に何かひっかかる事がございましたので、御神前に出て御祈念をさせて頂いておりました。そしたらあの『ラクダ』ですねを一匹頂いたんです。昔ぁしお知らせに頂いた事があるんです。砂漠を旅する行商人の人達は、ラクダを何頭もしかもそれに荷を積んで、まぁ砂漠を旅するわけです。
もちろん砂漠にはオアシスというのが、所どころにあってそこで一服する。そこで水を求めて、又旅を続けるのですけれども、何日経っても何日経ってもそのオアシスに行き当たらない事がある。そういう時にはいよいよそのラクダを殺して、あのうラクダの大きなこぶがありましょう。あそこにはあれには水が一杯あるそうです。だからいよいよん時にゃ、ラクダを犠牲にするという話を聞いた事がございますけれども、いつか私そういう御理解を頂いた事があるんです。
で私昨夜そのうラクダを頂いて思わせて頂いた事はね、いよいよ神様が助かりなさらなきゃならない。けれども助かる事が出来なさらん。水がないとま神様がそういうような場に当たられた時に、私はいつでもね自分の命を捧げてでも、神様の思いに添わせて頂かなければならん事だなと、私は昨日思うた。そしたらその問題が全然問題じゃなくなった。そこに神様の願いがあったんだとね。一生懸命というのはね、一生命を懸けるというふうに字が書いてございますからね。
やっぱり一生懸命とは命を懸ける事です。私は今日は神様の為に命を懸ける、それがいうならば神様への親孝行。日々御用にお使い回し頂く、いよいよの時にゃどういう信心しても出来ん、命を懸けにゃならない時にゃ、喜んで命を捧げると言った様な、腹を据えたら私の心が安らいだ。それでその一生懸命のようであっても、命を懸けていないから、その位の事が気に掛かるのだというふうに頂いたように思います。「幼少の時を忘れて親に不孝の事と」親を大切にしなければならんけれども。
親の心が分からなければ本当の親孝行は出けません。分かったらその事にいうならば一生懸命にならなければならない。一生懸命とは命を懸ける事だとね。私はそれを親と親神様とこう置き換えて、親神様に一生懸命の信心をしているようにあってもね、命を懸けきってはいないのである。神様のよいいうならばラクダに、ならせて頂かなければならんと、いうような事を今朝から感じさせて頂きましたら、この「幼少の時を忘れて親に不孝の事」という御神訓を頂きました。
皆さん親の心を分からなければ、だから先ず分かる事に努めなければなりません。よい着物でもなかった仏壇でもなかったね。親は子供達が忙しゅうしとる時にゃ手伝いの一つでもさせて貰いたいね、又可愛い孫の守りでもしたい。それを取り上げてしまう様な事では、結局どんなに形の上で親孝行しとる様であっても親孝行、親が喜ばなければ親孝行ではないという事。信心の上においてもそう。神様の御心が分からなければ、本当の神様に喜んで頂く様な安心して頂く様な、信心は出けないという事でございます。
どうぞ。